北条のご由緒家の筆頭で北条家一の権力者である大道寺政繁は河越城主でもありました。北条氏康の時から仕え、氏政や氏直にも仕えましたが、折り合いがつかず、河越城の城主の後は群馬県の松井田城の城主をしておりました。豊臣秀吉による小田原城攻めのときに、真田昌之と上杉景勝に降伏し、寝返りました。その後、鉢形城攻めなどに武功を上げましたが、裏切り者のレッテルはとれず、川越の常楽寺で切腹させられます。いまでもこの川越市内には大道寺氏のゆかりのものが多く存在しております。
秀吉の北条攻めの後、国替えでやってきたのは戦国一の弓取りであり、野戦の天才である徳川家康でありました。家康は江戸の開拓や整備のみならず、近隣の都市の整備もすすめていきました。特に川越には力を入れており、武蔵野国の東京に次いで2番目の都市として、整備をすすめていきました。そして家康がなくなり、日光東照宮に遺体を持っていく際、此の川越に立ち寄り、数日間法要いたしました。今もその場所には日本三大東照宮の一つ仙波東照宮が建てられております
徳川家康の幼少期から関係を持ち、三代将軍家光まで幕府の黒幕として活躍した天海大僧正は川越にある喜多院の住職でした。生年月日ははっきりとは分かっておらず、没年を考えると90歳以上生きたといわれています。まさに幕府の中では絶大な権力を持っていた人物で、将軍の首をすげかえることも容易いといわれるほどの権力者でした。俗説ですが、明智光秀との関係も疑われ、天海と光秀は同一人物ではないかとささやかれております。ロマンがあっていいですね。
江戸時代初期の大老。2代目川越藩主。忠勝の生誕は1587年(天正15年)。父親は徳川家康の重臣で初代川越藩主の酒井忠利。忠勝の初陣は上田合戦で、家康の長男秀忠に従軍しておりました。上田合戦ではのちの老中土井利勝も従軍しており、この二人は上田で真田昌之により手痛い敗北をいたします。忠勝はそののち忠利の後を受け継ぎ川越藩主となり、その後は若狭小浜藩主となります。幕府での地位も老中から大老に任ぜられ、江戸時代初期の幕府の権力者となりました。
関東の雄北条氏の重臣大道寺政繁や徳川家康など戦国の大勢力に翻弄された川越で、不要家電の廃棄処分のご希望の方は是非PCテックパソコン無料回収にご一報ください↓↓↓。お待ちしております。首都圏(関東全県)のお客様も大歓迎!。完全無料で出張回収もいたします。また、観光でお越しになった際は、PCテックパソコン無料回収にパソコンやオーディオなどの不要家電をお持ち込み下さい。これも完全無料回収です。