川越市を代表する寺院で創建は830年。東日本天台宗の大本山として、西の比叡山に東の喜多院といわれるほど隆盛を誇った大寺院です。しかし、創建当時は近くにある中院の方が隆盛を誇っておりました。戦国時代から江戸時代に入ると、天台宗の高僧で徳川家康や秀忠のご意見番であった南光坊天海(天海大僧正)が住職を務めるようになると、寺勢は最高潮に達し、家康の法要をやるなど、大寺院となっていきました。寺内にある五百羅漢は有名。
喜多院と同様830年創建の古刹。最澄の弟子である高僧慈覚大師円仁が建立したと伝えられています。当初は喜多院より寺勢を誇り、今とは真逆でした。この中院は狭山茶のルーツである「川越茶」の発祥の地で、京都の高僧明恵上人がこのお寺の庭でお茶を栽培したのが、「川越茶」のちの「狭山茶」の始めでした。その後、川越藩領の狭山に茶処が移され、日本三大茶の一つ狭山茶が誕生いたしました。関東での茶の湯のメッカとして大変有名なお寺です。
1244年開基の古刹で、代々この地を収めた坂東八平氏の棟梁河越氏の菩提寺として有名。境内の裏には秩父氏出身の河越太郎重頼の墓がございます。この河越太郎重頼は姉が比企家に嫁いだ、頼朝の乳母であった比丘尼で、重頼の娘は郷御前といって、源義経の正室でありました。鎌倉将軍家とは大変縁が深く、鎌倉幕府きっての大有力御家人でありました。この寺には義経と郷の方の位牌の写しが安置されております。また、河越城主酒井重忠が夜な夜な合戦場の張り裂けるような声がするということで、供養に出した堀川夜討(河越夜戦)の屏風絵が安置されております。
1774年に川越の大火により時の鐘の梵鐘が消失してしまい、急遽行伝寺から梵鐘を借りることになりました。ようやく70年後に返還されることになりましたが、時の鐘から行伝寺までの約300mの間に、鐘を壊してしまい、その後ようやく新しいかねが完成し、行伝寺に落ち着いたと思いきや、太平洋戦争で徴収されてしまい、また、梵鐘が亡くなってしまいました。徴収された梵鐘は、なんとか壊されることがまぬがれ、今は別のお寺の梵鐘となって、時を刻んでおります。